騎手の惨死

別項にもあるやうに、昨日の第五競馬は一項の悲惨な出来事をもって終結を告げた。


この競馬は豪州産新馬競走で、第一着のフライングスター以下七頭の馬は発馬合図の赤旗が動くと共に一斉に駆け出して、各馬いずれも凡そ二分の一哩*1ばかり奔地した時、第五番目に進んで来た辰馬烈爽氏所有のトッピは不意に横さまに倒れ、同時に騎手の柴田はまっさかさまに三間ばかり投げ出され頭部を柵に打ちつけし、一刹那後より続いて駆けてきた馬のために、右の前額部をしたから蹴られ、額骨は蹄鉄の大きさに割れ、砕け、みるみる血潮が瀧のやうに吹き出す上を、なおも後続の馬が二頭必死の鞭撻に見境もなく飛んできて倒れた人と馬の腹部を蹴り立て踏み立て駆けこしたから、気の毒にも柴田は悲鳴を揚げる暇さへなく五分間いるかいぬに、黒黄縞黒帽の姿は血塗れ、泥塗れとなって即死した。


其の先は先頭のフライングスターが決勝線に達する際とて馬の一匹、人の一匹くらいが死ぬる位は何のその、誰あつて騎手の屍骸を取り片付けようとするやうなものはなく、審判もつて去る者は、去り止るものは止るとなつた後、暫く赤フロックの神永場内取締が人夫を指揮して柴田の身体を担がせて、馬見所裏手の救護所へ連れて来た。この時見物に来ていた柴田の妻女は血相を変へて飛んで来て、無残の姿となつている夫の屍体に取り付きながら、人目も構わず声を揚げ泣き出したのは、流石に欲ばかりの見物も思わず貰ひ泣きをしたが、再び次の競馬番組を張り出すと共に人は忽ち*2馬券発売口に奔って血に染む屍体の傍らには泣き崩れた妻のみが淋しく残つた。

原文ママなので読みにくい表現も多いかと思います。明治時代ですので、今のヘルメット技術とは異なりますが、競馬の危険性と馬券購入者の冷たさを示す事件となっています。この事件にあったとして、自分もショックをうけつつも次のレースの馬券を買うかもしれないと考えるとゾッとして、鬱になります。実際、常石が落馬した後も馬券を買っていましたし。

*1:マイル

*2:たちまち