天皇家と大統領の確執

この度、ボロ株観光TV(以下BK)の独自取材により天皇家と大統領の大きな確執を暴くことができた。それは以外にも、皇室やホワイトハウスとは無関係なところにヒントが隠されていた。日本中央競馬会、通称JRAの主催するレースに参加する競走馬にあったのだ。このエントリーではその故を報告する。なお、このエントリーを書いた後にブログの更新がなくなった場合は管理人いわさしの身に何かあったかやる気がないか*1のどちらかと判断して頂きたい。


■report.1 Emperor's Cup

明治38年(1905年)5月6日に横浜の日本レースクラブが、明治天皇から下賜された「菊花御紋付銀製花盛器」を賭けて創設した「エンペラーズカップ」が天皇賞の前身。翌39年には東京競馬倶楽部にも御賞典が下賜され、その後、阪神、小倉、福島、札幌、函館の計七つの競馬倶楽部で「帝室御賞典競走」が施行されていた。しかし、各競馬倶楽部が独自の競走条件で施行していたため、競走名こそ同じものの、レースの性格は統一されたものとはいえず、昭和12年に各競馬倶楽部が統合されて日本競馬会が誕生したのを機に、「帝室御賞典競走」は春が阪神、秋が東京と、東西で年2回施行されることとなった。

昭和12年からの東西2回の競馬がいわゆる天皇賞である。ダービーと天皇盾を獲ることが競走馬生産者の長年の夢であり目標であった。

第1回の12年秋は2600m、13年春が2700mで、3歳以上の馬によって争われた。13年秋から4歳以上、3200mの競走条件となり、戦争で中断される19年春(この時は能力検定競走として非公開で施行)まで続き、戦後の22年春に「平和賞」の名で復活。同年秋から現在の名称である天皇賞となり、春が京都、秋は東京で施行され、長い歴史を誇る天皇賞古馬最高の栄誉とされてきた。56年に勝抜制が廃止されて過去の優勝馬にも出走権が与えられ、59年には秋の天皇賞の距離を2000mに短縮、さらに62年には3歳馬にも秋の天皇賞への出走権が与えられた。また、本年より国際競走として施行され、5頭以内の外国馬が出走できる。

本年より国際競争になる。この点は非常に重要ある。今でこそタップダンスシチーアサクサデンエンといった馬達が前哨戦も使わずに普通に出てきているが、これまでの出走規定は厳しく外国産馬は1999年までクラシックや天皇賞には出走できなかった。エルコンドルパサーグラスワンダーという超級の外国産馬が出てきたことでようやく天皇賞は開放された。それまでは距離適正を他にしてマイル路線やJC,有馬などを目指すことしかできなかったのだ。1999年、外国産馬に門が開いていたのならばグラスワンダースペシャルウィークの対決をもっと見ることができたかもしれない。



開放元年の2000年、春の天皇賞グラスワンダーの姿はなかった。そして、引退。せっかくせまった開放はなんだったのか・・・


秋の天皇賞には新しい外国産の風メイショウドトウイーグルカフェが出走した。当時のマスコミ評論では「天皇の盾を外国産馬に渡すわけにはいかない」というものと「外国産馬に勝って欲しい」というものに分かれた。メイショウドトウイーグルカフェは凡走するという根拠のない風論まで流した。蓋をあけてみると、メイショウドトウテイエムオペラオーの対抗に推される。2番人気。壁は破れなかった。2着と4着だった。



2001年


開放初年度のダービーに出走した外国産馬クロフネ(父 French Deputy)は期待通りに開放元年を象徴する名前となった。さらに、クロフネは3歳馬ながら開放2年目の天皇賞に挑戦すると表明した。だが、賞金順で古馬G1馬のアグネスデジタルに出走権を奪われてしまう。このときの世論は「テイエムオペラオーを倒せるのは強い3歳のクロフネしかいない。アグネスデジタル空気読め」の一点張り。しかし、長年出たかったものにようやく出られたのだから爆発しないわけがない。アグネスデジタルは重馬場のなかを白井師が指示した大外一気で快勝した。外国産馬時代の幕開けを感じさせる天皇賞だった。



2002,2003年


語るまでも無くシンボリクリスエスの連覇。天皇賞を制覇して以降、日本の馬でシンボリクリスエスの出たレースに勝てたのはヒシミラクルだけとなった。

2004年


外国産馬の出走はシェルゲームだけだった。だが、大衆が支持したのは岡部騎手からペリエ騎手に乗り変わったゼンノロブロイ。そう、国際化の時代だからこそ開放後の天皇賞・秋外国産馬も外国人騎手もちゃんと迎え入れている。JRAは丸くなった。

開放後の外国産の天皇賞成績
04 シェルゲーム   13着
03 シンボリクリスエス1着
03 エイシンプレストン4着
03 イーグルカフェ  9着
03 アグネスデジタル 17着
02 シンボリクリスエス1着
02 エイシンプレストン8着
01 アグネスデジタル 1着
01 メイショウドトウ 3着
00 メイショウドトウ 2着
00 イーグルカフェ  4着

本年は、エンペラーズカップ天皇賞)が創設されて100周年を迎えることを記念して施行される。
天皇皇后両陛下は、来る10月30日(日)午後、JRA競馬博物館で開催している特別展及び天皇賞競走を御覧になるため、JRA東京競馬場行幸啓されることとなりましたので、お知らせします。

例年と違い10R施行。天皇賞は厳かな雰囲気を取り戻した。それでも、両陛下の目前で外国産馬が勝つようなことはさせないなんてこともないのだ。日本は国際化の門を開いたのだ。


だが、そんな国際化が広まっている天皇賞にも悲運な名前のせいでJRAの陰謀に負けてしまった馬がいる。


一節は


■report.2 "government of the people, by the people, for the people"


デビューして勝ち上がるのに3戦かかったもののそこから3連勝。中間の問題がなかったら皐月賞でも上位を期待された馬がいる。その名はリンカーン。彼の成績はその後5−4−2−6。G1に出走しても安定して掲示板に乗る活躍をしている。去年の年度代表馬ゼンノロブロイと比較しても3勝5敗の成績。それほど負けてはいない。僅差の敗戦もあるくらい遜色のない成績である。ただ、なにか勝ちきれないというところがあるだけだ。


そのリンカーン掲示板をはずしたのはたったの4回しかない。

東京優駿 9人8着
天皇賞春 1人13着
天皇賞秋 4人12着
天皇賞春 1人6着

お気づきになっただろうか。9番人気だった東京優駿を除くと・・・菊花賞2着馬にあまりに不可解な敗戦ではないか。


天皇の盾はなぜリンカーンを嫌うのだろうか。言うまでも無い。その名が米国大統領をあらわしている。掲示板を外したそのレースが外国産馬に開放されたダービーと春秋の天皇賞というのは解放宣言を出したあてつけか。


時の米国大統領Millard Fillmoreの命を受けてペリーが浦賀クロフネで来航したのが1853年。翌年、日米和親条約が締結され日本は急速に開国に向かった。その4期あとの大統領エイブラハム・リンカーン天皇賞を回避せざるをえなかったクロフネ天皇賞でのみ掲示板をはずすリンカーン。幕末の時代のキーワードを持つ馬達は天皇盾に縁がないのだ。


思えば、リンカーン大統領の有名なゲティスバーグ演説の一説に"government of the people, by the people, for the people"というものがある。


その名前を受け継ぐこの馬が盾から遠く見放されている。これは再び天皇主権国家に戻すという暗示だとすると恐ろしい。宮内庁から命を受けたJRAの馬場造園課が必死に作ったリンカーンの瞬発力を奪う強烈な洋芝馬場、イングランディーレの快挙もこれなら話が早いというものだ。


■Last report... Lincoln
今週の天皇賞・秋リンカーンが4度目の天皇の盾に挑戦する。最高のステップである京都大賞典を快勝。中間も順調そうに思える。名を受け継いだその馬は・・・両陛下の目前で、またしても掲示板をはずしてしまうのだろうか。リンカーンって火曜10時にやる意味はあるのだろうか。ダウンタウンDXとか考える人とどうちがうのだろうか。三村がフリップを出すと反射的に笑ってしまうのはなぜだろうか。あと、このエントリを全部読んだ人はいるのだろうか*2



■追記
リンカーンはまたしても2ケタ着順に終わった。

*1:むしろ、やる気があるか

*2:いたらコメントplz